主体的に対話的に

 教育の現場などでよく聞く『主体的』という言葉。最近の教育現場では『主体的に対話的に』となっていても、とりわけ『スポーツの現場』ではどうだろう?勝敗や出来不出来にとらわれ過ぎていて、選手が主体的にプレーしているのだろうか?            最近、3,4年生の練習で、ゲーム中ゴールキックになると、遠くにキックしては、相手にボールを奪われてしまうことが多々ある。キックする選手に聞くと、『きちんとボールを渡せると思った』と言う。しかし相手に渡ってしまう。『どうすればいい?』と聞かずに『ペナルティのコーナー付近にいるディフェンダーに渡せないかい?』とアドバイスするが、どうやらそれは不満らしい。『もし、そこで取られたら、一番ゴールを奪われやすいから』と言う。GKやディフェンスからのビルドアップの必要性を感じない子どもたちに指導者が、ビルドアップを強制するのでは主体的ではない。対話的な要素を入れ、みんなで話し合ってみるべきだったと反省した。      ビルドアップは理解しているが、チームのレベルによっては、ビルドアップが難しいから、子どもは主体的にゴールキックを遠くに飛ばそうとしているのだ。もう少し、横長のピッチや縦長のピッチで3vs3などをやったら、気づくのだろうか?           どうしてビルダアップが必要なのか?ビルダアップ以外の方法もあることに気づいてくれるだろうか?どうしたらチームが同じ絵を描くことができるかが一番指導しなければならないことだろう。『教えるのではなく気づかせる。気づく喜び』             さあ、作戦版をいつでも持ち歩こう。